なにげなく書跡のメニューを開いたら一個目が明恵上人の歌集だった。


明恵鎌倉時代の人で、自分の夢を記録し続けた変わった坊さん。今までで一番か二番目に読んだ河合隼雄が尊敬する二人の人物のうちの一人。自分は明恵上人については名前を知ってる程度だが、自分がよく読む本の著者が尊敬していた人物の歌集が国宝に指定されているというのは、なんだか国を挙げて価値を認めてもらっているようでうれしい。

ヨーロッパでは20世紀になり、無意識を発見したフロイトをしてようやく「夢の解釈は、無意識の活動を熟知する王道である。」と言わしめる段階に至ったのに対し、日本には13世紀に既にその夢の重要性に気づき、自ら記録し分析していた人がいた。

それにしてもこういう話を聞くにつれ、日本人の感性の鋭さに驚く。

日曜日にNHK中江兆民の「日本には、いにしえより今に至るまで、哲学がない。」という言葉を紹介していたが、つまりはその態度こそが日本の哲学だったんだと思う。

祇園精舎の鐘の音には
永遠に続くものは何もないと言っているような響きがある
まんじゅしゃげの花の色は
栄えたものは必ず滅びるという法則を表している。
権力を持ったものも長くその権力を持ち続けることはできない。
それは春の夜の夢のようだ。
強い力を振るったものも結局は滅びる。
それは風の前にあるちりと同じである。


日本人が持つ高精細に嗅ぎ取る偉才の感性からすれば、「何事も万物流転し確かなものなど何もない」とするのがもっとも説得力のある哲学であり、言うならば哲学がないことが哲学であった。(哲学というのは、確かなものを探し続ける営みである) それは何か一つの考えに頼って生きていられるわけではない、常に現象を観察し逐一自分を修正する強さが求められる生き方だと思う。



建築物でも大聖堂が1000年遺残したのを誇る西洋に対して、伊勢神宮は20年に一度建て直す。自然の厳しさも国民性を作ったと思う。世界の陸の四百分の一ほどの面積に世界の十分の一の地震が集中する国では、そうならざるを得なかったのでは。